last updated 1997/07/26
第72話(全130話)
暴風雨(1/2)
第四章 漂流
1 暴風雨
「嫌な風が出てきたわ」
ポツリと低く、ほとんど独白のような感じでマリカが呟く。帆の向きを調整する舵棒を握り
ながら、彼女は海原の遥かを見渡した。
ピートもマリカの視線を追ってみる。海に乗り出してから二日が過ぎようとしていた。風に
従え、と言ったアーバムの言葉通り、ただ風が海の向こうへと吹き渡って行ったので、それを
追うためにマリカとマスターで木々を集め、葉っぱで帆を編んで、どうにかこうにか船らしき
ものを作り上げた。船というよりも筏に近いかもしれない。
フィンフィンは〈筏というよりただの漂流木だね〉と笑った。
ワーターは気乗りしない様子でくんくんと大気の香りを嗅いでいた。
そんなな船で大海に乗り出す、というのはかなりの無謀だろう。それはわかっていた。けれ
どマリカもピートも何となく「平気だろう」とうなずき合ったのだった。海は穏やかに凪いで
いたし、空はどこまでも高く晴れ渡り、天気が崩れる兆候はどこにもなかった。それにアーバ
ムの指示に従っているのだ。風に従えと長老は言い、それが旅を続ける最善の道を示してくれ
ると約束してくれた。ならば、不安に思う理由はどこにもない。
第一、風と言うのは普通、海から陸へと吹き付けてくるものなのに、マリカとピートが海岸
に立った時に限って、陸から海へと真一文字に吹き渡って行っていたのだ。これはどう考えて
も「海を渡れ」と命じられているようなものだ。そう思った。
ずっと追い風が続くのなら、筏だろうが漂流木だろうが、それなりのスピードで走ってくれ
るだろうし、万が一の時は元々海の生き物であったフィンフィンがついている。フィンフィン
が波を読み、風を読み、そして星を読んで、海に迷うことなく、陸へと導いてくれるだろう。
そう思った。フィンフィンは〈もちろん、ぼくに任せて〉と胸を叩いていた。
なのに。
穏やかな航海を楽しむことが出来たのは、二日目の朝までだった。つまり今日の朝、フィン
フィンが朝食にと魚を捕まえに行ってから、何だか海の雲行きが怪しくなりはじめたのだった
。 すぐに戻ってくるはずのフィンフィンが戻らない。
それが不吉な気配の前兆だった。いままでは海にチャポンと潜れば五分もしないうちに、マ
リカひとりでは食べ切れないくらいの小魚や貝を集めてきてくれたフィンフィンだった。マリ
カは腰につけた万能ナイフで魚を捌き、内臓を取ってそれをワーターに与え、肉をチャプチャ
プと塩水で洗うと、そのままペロリと口に放り込んだ。生魚をゴクンと飲み下してニッコリ微
笑むマリカは、姫君であるより漁師の娘であることのほうが似合っているようだとピートは思
った。
けれど、そのマリカも今朝から一匹も小魚を食べられずに過ごしている。フィンフィンが戻
ってこないのだから、それが心配で食事どころではなかった。
もうフィンフィンが海に消えてから三時間が過ぎようとしていた。
「やっぱり、捜しに行ったほうがいいみたいだ」
ピートが言い、マスターには「潜水能力」もあることを確認して、筏の上に立ち上がろうと
した時だ。マリカは「嫌な風」に気づいた。ワーターが床板にペタンと腹ばいになって頭を低
くした。
マリカのみつめるほうの空が、重い灰色に沈みはじめていた。太陽の姿はいつの間にか空か
ら消えている。雲が大空を完全に覆い尽くしていた。ずっと筏を押してくれていた風は、フィ
ンフィンが海に消えたのとほとんど同時にピタッと止まっていた。
凪。
静止した海にマリカたちを乗せた小舟が浮かんでいる。ジッとフィンフィンの帰りを待つよ
うに、船は動かない。鏡のように平らで、波ひとつ立たない海の、どこにもフィンフィンが帰
ってくる様子はなかった。
ピートはマスターの機関内にある気象データを引っ張り出して、いまの状況の細かな数字を
インプットしてみる。気圧の変化、海面の温度、日時、場所、雲の様子、思い付く限りの数字
を測定して気象データにインプットし、今後予想される海の状態について調べてみる。
ピートがマスターをカチャカチャと作動させている間、マリカはマリカが独自に塩の香りを
嗅ぎ、雲の垂れ込めるさまを凝視して、今後この海にどんな変化が訪れるのかを考えていた。
「たいへんだ」
ピートがデータの分析結果を見て悲鳴を飲み込んだような声上げる。
「あと何分も持たないわ」
マリカが言う。
言った瞬間、筏の真下からフィンフィンがザバァッと海面に飛び出してきた。フィンフィン
の背中がザックリと切れ、そこから大量の血が吹き出していた。海はまたたく間に赤く染まっ
て行く。
「フィンフィン!」
マリカとピートが同時に声を上げ、フィンクを筏の上へと乗せ上げる。
フィンフィンはふたりの顔を見上げると、喘ぎながらも強く命じた。
〈すぐに船を西へ向けて! 嵐がくる。すごい嵐がくるよ!〉
「西ね? わかった」
マリカはフィンフィンの体をマスターの蛇腹の腕へと預けると、すぐさま船尾へと走り、筏
の舵を回し、櫂を手にして筏を漕ぎはじめる。彼女の敏捷な動きはすべてを一瞬の連続した動
作でこなした。動きながら、彼女はマスターに命じる。
「すぐに止血してあげて! それはスワングに咬みつかれた傷だわ、消毒してあげて! 毒が
回ったらフィンフィン、生きられないッ」
「はい」
ピートは答え、マスターの救急治療システムを作動させる。下腹部にあった引き出しが飛び
出し、中に収納された消毒薬や止血剤、包帯などをマスターは器用に取り出して、フィンフィ
ンの傷の手当てをはじめる。
〈ごめん。まさかこんなところにスワングがいるなんて思わなかったから油断してたんだ。
でも大丈夫。咬まれた場所が良かったみたい。ちっとも痛くないんだ」
〉「痛くないのは、出血がひどくて感覚が麻痺したせいだよ。動かないでジッとしてなきゃ駄
目だ」
〈ジッとしてたらきみたちに危険が迫ってるのを教えられないもの〉
「嵐はひどくなるのかい?」
「たぶん。マスター、きみの予測やマリカの直感を越えてると思うよ。ぼくが知る限り、テオ
でも最大級の嵐になる」
火の揺れが治まらない、とアーバムたちが言っていた。
ピートはそのことを思う。
バランスが崩れた時、かつてひとつの文明が洪水に押し流された。
「バランスを保って!」
必死に西へと筏を漕ぎながら、マリカが叫んだ。
「マスター、フィンフィンとワーターの体をマストと床板に縛って固定してあげて! それが
すんだら、あなたの体も同じように固定しなさい! 食料と水をしっかりロープで結わえて、
それをマスター、あなたの体の中にしまっておいて!」
言いながらマリカは自分の体を船尾にしっかりとロープで固定して行く。
南の空に稲妻が走った。わずかに遅れて雷鳴がほぼ真上で轟く。
「体を低くして! 床に腹ばいになるのよ!」
言いながらマリカは櫂を腹の下に挟み込むと、自分も床にへばりついた。
同時に背中に何か重たいものがドーンと落ちてきた。小麦粉を詰めた麻袋が棚から落ちて、
下にいたマリカを直撃したかのような感じだった。しかしそれは小麦粉の袋ではない。雨だ。
もの凄い勢いで滝のような雨が筏へと襲撃を開始した。海が雨を受けて揺れはじめる、泡立ち
ながらぐらりぐらりと海が揺れる。瀑布のごとき豪雨に加えて、六メートルもの高さに達する
波頭から海が雪崩れ落ちてくる。波はあらゆる方向から俄造りの筏を砕け散らさんと襲いかか
った。風が雄叫びを上げる。波が横殴りにマリカとマスターを打ちつける。筏は波に空へと持
ち上げられ、逆さまにひっくり返され、そして奈落へと突き落とされた。もはや空も海も区別
はなかった。そこはただ逆巻く水と風の地獄と化した。
(つづく)
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